ランツフートの結婚式

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アルトシュタットとノイシュタットと呼ばれる大通りは綺麗な色とりどりのファッサードの家が並んでいます。しかし最初からこうだったわけではありません。町が造られたあと、どんどん建て増しが勝手に行われて通りの真ん中まで家が建っていました。それを15世紀の初めに公爵ハインリヒが道路舗装を認め(これによってランツフートは当時中部ヨーロッパでは数少ない舗装道路の町となりました)、さらに建物の増築部分の取り壊しを命じました。ハインリヒは強引、乱暴な性格で市民の権利を次々に取り上げたために反乱が起り、この収拾のさいにも過酷な刑を行ったのですが、一面その剛腕でもって都市整備をしたからこそ、アンゲルス ルンプラーが1503年に次のように簡潔に書いている様に「これより気高い広場は見たことがない。それは市の門から次の門まで広がっている...見る価値のあるもの、美しいもの以外のものは何も見られない。」美しい町並みが得られたのです。

当時はすべて煉瓦積みの建物で、今でも裏通りや横町に当時からの建物がそのままの姿を見せていますが、一時代の趣味でしょうか、17世紀から煉瓦の上に漆喰を塗ってとりどりの格好のファッサードを付け、色を塗ることが行われて今日に至っています。

トラウスニッツ城。「信じるな」が訛ったと言われています。お城から見下ろす街の眺めが素晴らしい。

アルトシュタットと並行するノイシュタット。この通りからはお城がよく見える。

聖マルチン教会の塔はただ煉瓦を積んだだけの塔としては世界一高い130.6mあります。教会の建設は1380年代から始まりました。ブルクハウゼンのマイスターであるハンスが指揮を取りましたが、ハンスの死んだ1432年にはまだ塔は完成しておらず、完成は1500年以降に持ち越されました。ハンスの凄いところは、この塔が歯ブラシのように打ち込んだ杭の上に建っているというところにあります。城のある岡の麓でイーザル川から100mほどのこの場所の下は地下水が流れていて、彼は樅の木の杭を地下水の中に打ち込みその上に塔を建てました。もう一つは本堂の柱の細さです。天井は相当高いのですが柱が細い分なおさら天井が高く見えます。塔には今でも月に一回登れます。登るとお城が少しですが下に見えます。それは建設当時、市民が権力の象徴であるお城よりも高くすることを目論んだからだということです。

本堂にはキリストの十字架像が吊ってありますが、この8mの巨大な像が少しもそんな風に思えないほど本堂も大きいのです。右側の身廊には後期ゴチックの重要な作品をされているランツフートの彫刻家ハンス ラインベルガーの聖母像があります。彼の名前は自然科学系のギムナジウムにつけられています。オルガンは1610年ころに作られたものが置かれていましたが、ごく最近中味が新しくなりました。ただし1648年の正面部分は残されました。77個の摺動板機構のストップが4段鍵盤の上に配置されています。

正面ポルタール(飾りのついた出入り口)には「キリストの汗を拭くヴェロニカ」と十字架の下にはミサの捧げ物と異教の失墜が表されています。両側にも一つづつポルタールがあり、それぞれ豊かな飾りがついています。

マイスター ハンスの墓碑は南側の壁にあり、「受難のキリスト像」の下にこの老人の頭の像があります。教会の後ろ側には宝物殿があり、説明をしてくれます。

 

4年ごとに行われるランツフートの結婚式。お輿入れの行列の再現、騎馬槍試合、演劇、コンサート、夜営風景などさまざまな行事が行われる。花嫁と花婿は若い市民から一般募集する。

 

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